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書籍:瞬撃手・横山和正の空手の原理原則 より
〜 瞬撃手・横山和正の空手の原理原則 〜
原理原則は、周囲がいかに変化しようとも、
常にその物事を根底から支えるものとして存在し続けるのである。
原理原則とは(P.10)
私は一空手家として、空手の古典的な修行の中に、
東洋の武道・武術の訓練における大きなメリットを見出したものである。
現在行われている武術の存在意義としては、ざっと次のようなものが考えられる。
(1)スポーツ (2)武道 (3)健康法 (4)護身術 (5)趣味 (6)情操教育
このように様々な目的が挙げられるが、多少の工夫次第でこれら全ての目的を統合、
包括し得る武術という運動法は、他に類を見ない非常に優れたものであると言えるだろう。
それは東洋の武術が古典的な東洋思想や訓練法に基づき、
人を大自然の摂理に置き換えて捉える生命論、宇宙観といった概念を基本とした、
万物に通じる原理原則に基づいた心身修養法となっているからである。
原理とは「根本的な仕組みや現象の原因・根拠を示した物」である。
したがって原理とはそれを事前に知る事によって、
以降に起こるであろう結果を高確率で予測できるものであるということができる。
また原則とは「確率的に見て基本となっていると思われる」という法則を示したものだと言えるだろう。
つまり全ての訓練法は、これを原理原則に基づいて行う事で、
訓練による向上の結果を具体的な現象として得られるものでなければならない。
では、そうした原理原則を具体的に空手道の習得に当てはめて考察してみよう。
空手道の修行には、大別して「基本」「鍛錬」「応用」という3種類の基本的なステップが存在している。
このことは多くの人々の知るところだが、
それらは何れも"組み立てと分解"という作業の繰り返しである事を、まず理解しなければならない。
そして、このように組み立てと分解を循環的に繰り返すという向上法では、
基盤=基本を正確に実行し、その形態を脱皮する境地に達したときに真価を発揮するという、一連の経路を持たなければならない。
基本の中に応用の原理があり、応用は基本原則の延長線上にある。
空手の向上は基本から出発して習得へと向かい、習得した後に再び基本へ戻ることの繰り返しである。
一旦習得した後にもう一度基本に戻っていく道程がシンプル化=応用であり、
習得とシンプル化を何度も繰り返して螺旋階段を登るかのように向上していくのである。
後書き(P.199)
(前略)
そう言えば1982年に渡米してからというもの、
考えてみれば私を日本人であると即答する人が、日増しに少なくなっていくようである。
そんな国籍不明の様相は、私のこれまでの人生には常について回っている。
かつて日本人である私が台湾で中国武術を学び、本土人でありながら沖縄空手を学び、日本人でありながら米国に住んでいる。
さらに現在では、米国では日本人として。
日本では米国在住。沖縄空手枠では県外人、日本空手では沖縄空手枠、かつてはアメリカンカラテとまで言われたこともあり、
何処にも収まらない状況に置かれている気がしないでも無い。
しかし、それら全ての履歴が事実であり、
ただひたすら自己の武術の追求を行った上での結果でもある。
この本を執筆するにあたって特に頭を痛めた事例が、その主題の選択である。
それが沖縄空手の物になるのか、私個人の研究になるのか。
武道と呼ばれる物の理になるのか等々と言った具合にである。
そこで私が選んだ題材が"原理原則"だった。
私の知る範囲で述べるならば、
私の学んだ沖縄少林流の空手は完全に確立された練習体系、型、技法が一分の無駄も無く揃っている理想的武道である。
そしてそれらは「こうして行けばこうなる」といった回答を既に打ち出している世界である。
かつて私が沖縄空手の優秀性を見出し、武道の専門誌で発表を始めた頃は、
調度直撃打撃(フルコンタクト)と呼ばれる空手の全盛期であり、沖縄空手に目を向ける人など皆無の時期であった。
それが時代の流れで現在のようなブームを起こし、多くの人々から注目を浴びている事は、"我が意を得たり"と喜ぶべきものである。
しかし、このような流れも所詮は空手という武術の全体像の中のごく一部分が時代に求められ、
抜粋されることによって起きた一過性のブームに過ぎないだろう。
時は絶えず流れ、変化していくものである。
しかし原理原則は、周囲がいかに変化しようとも、常にその物事を根底から支えるものとして存在し続けるのである。
とても原則的な事柄が書かれていたので、その趣旨について紹介することにしました。
いろいろと思うところはあるのだが、ここでは空手の原理原則が提唱されているという事実だけを取り上げることにしました。
しかし一言だけ述べておきたい、「やはり空手の原理原則を体得するためには相応の修行が必要なのだろう」と。